身体で考え、生きるということ

その昔、アメリカの大学院でプロダクトデザインを学んでいた頃、課題の3Dモデルを仕上げるために、3日間ほとんど寝ずに作業を続けたことがある。 当時は若くて健康だったし、徹夜もそれほど珍しいことではなかった。大学のコンピュータールームに何時間も座って、目の前の作業にひたすら集中していた。その間、自分の身体に何が起きているかなんて、ほとんど気にしていなかった。 そして3日目。 コンピュータールームから直接家に戻り、シャワーと着替えだけを手早く済ませ(当時学校から徒歩数分の家を友人たちと借りて住んでいた)また学校の授業に出て教授の話を聞いていたとき、 突然、教授の頭のてっぺんが、残りの部分からスーッとずれていくのが見えた。 「やばい!寝不足で脳がイカれてる」 そう思ったのを今でも覚えている。 さすがにその日は家に帰って、ちゃんとベッドで寝た。 今となっては笑い話だけど、 この出来事には、いま私が面白いと思っていることが含まれている気がする。 それっていうのは、何かに夢中になっていると、 まるで「大事な仕事をしているのは頭のほう」で、 身体はただそこにくっついているだけのように感じることがある。 お腹が空いたり、疲れたり、病気になったり、何か不調を訴え始めたりして、 ようやく身体の存在に気づく。 そして、気づいたことに「めんどくさいなぁ」なんて思ったりもする。 今集中していることを中断してそちらをケアしなければいけないから。 でも、本当に私たちはそんなふうにできているんだろうか。 これは、通訳という仕事をする中でも、私がずっと興味を持ってきたことのひとつだ。 通訳には、たくさんの知識が必要になる。語彙、文法、文化的な背景、専門用語、 それから、ちょっとしたニュアンスによって意味が変わることへの文化的、言語的背景の理解。 長い間、学んだり、覚えたり、聞いたり、練習したりしてきたことが、その土台になっている。 でも、実際に通訳をしているとき、それを「知っている」だけでは全く足りない。 相手の話を聞き、その人が本当に伝えようとしていることを理解し、聞いた情報を一時的に記憶に置き、点と点をつなぎ、別の言語でそれに合う言葉を探し、口に出す。 そしてその間にも、次に話されていることを聞き続けている。 しかも、それをいちいち考えている時間はほとんどない。 調子がいいときは、そういうものが不思議なくらい一緒に働いてくれる。 知識だけではなく、耳も、記憶も、注意力も、声も、呼吸も、タイミングも、 話し手の中で何が動いているのか、その場で何が起きているかを感じ取る感覚も。 そう考えると、通訳というのは、私にとって意外なほど「身体的」な仕事だ。 これは特に、疲れているときによくわかる。 頭の中にある知識そのものは前の日と変わっていないはずなのに、同じようには取り出せない。 いつもなら自然に出てくる言葉が出てこなかったり、 話と話をつなげるのに少し時間がかかったり、 今ここに集中すること、注意を広く向けておくことが難しくなったりする。 だから長年この仕事をするうちに、よく眠ることや、自分の身体とつながっていることは、 仕事とは別のところで「健康のためにすること」ではなく、 通訳者としての能力の一部なんじゃないかと思うようになった。 そして、これはコミュニケーションについても同じなんじゃないかと思う。 人の話をどう聞くかを学ぶことはできる。共感について理解することもできる。 コミュニケーションについての本を読んで、感銘を受けたり、「うん、なるほど。その通りだ」と同意することもできる。 ところが、実際の会話の中で、誰かに自分の痛いところを突かれるようなことを言われる。 すると突然、それまでわかっていたはずのことにアクセスするのが、驚くほど難しくなったりする。 私は、この「知っていること」と、それを実際に「その瞬間にアクティベートして生きること」の間にあるギャップが、とても面白いと思っている。 通訳者として、コミュニケーションに関わる者として、 そしてアマチュアのダンサーやアーティストとして、 私はいろいろなところで、何度もこのテーマに戻ってくる。 人間として何かを身につけていくということは、 頭でどれだけ理解しているかだけではないのかもしれない。 その理解が、身体や感情、感覚、注意、そして思考を含めた自分の身体に、 どれだけ使えるものとして存在しているか。 まだ、これについてきれいな結論があるわけではない。 でも、これからも考えていきたいことのひとつだ。 私たちが頭で「わかっている」ことが、実際に「生きられる」ものになるには、何が必要なんだろう?
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あなたへの問いかけ
頭では「わかっている」のに、その瞬間にはなかなか「生きられない」。
そんな経験をしたことはありますか?
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